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ハプスブルク家の最後の皇太子 オットー・フォン・ハプスブルクの葬儀

2011年7月16日、ウィーンのシュテファン大聖堂にて、ハプスブルク家最期の皇太子、オットー・フォン・ハプスブルク氏の葬儀が行われた。

オーストリア首相を始め、欧州各国の王族や元君主達が出席した葬儀は、帝国時代の伝統に従い執り行われ、帝国時代の国家「神よ、皇帝フランツを守り給え」の唱和で締めくくられると、当時の装束に身を包んだ5千人以上の行列が、ハプスブルク家の旗で覆われた棺をマリア・テレジアも眠るカプツィーナ教会へと運んだ。

既に民間人となっていたオットー・フォン・ハプスブルクだが、彼の葬儀はなぜこのような国を挙げての葬儀となったのだろうか。


2度の世界大戦を経験したオットー・フォン・ハプスブルク

オットー・フォン・ハプスブルクは、1912年にオーストリア=ハンガリー帝国の第3位皇位継承者として誕生した。1914年、第一次世界大戦勃発のきっかけとなったサラエヴォ事件で、第1皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公が暗殺され、オットーは第2皇位継承者となる。大戦の最中の1916年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去すると、父カール1世が皇帝に即位。これにより、オットーは4歳にして皇太子となった。

それ以降、オットーの人生は20世紀の激動に飲み込まれて行く。

第一次大戦での同盟国の敗戦により、オーストリア=ハンガリー帝国が滅亡。オットーたち家族は国を追われ国外へと亡命する。亡命地ポルトガル領マデイラ島での困窮生活の中、父カール1世が死去。その後のナチス・ドイツの台頭によりオーストリアがドイツに併合されると、オットーは反ハプスブルクだったヒトラーと対立しアメリカへと亡命する。終戦後の冷戦時代、独立を取り戻したオーストリアに対し、オットーは共和国への忠誠を宣言するがなかなか認められず、1960年代に入って、ようやくオットーのオーストリア帰還が認められた。


常に皇位継承者らしく毅然として生きたオットー

父カール1世が亡くなった9歳の時から、ハプスブルク家の事実上の皇位継承者と見なされていたオットーには、その威光を恐れるとともに利用しようとするムッソリーニやヒトラー、ソビエト政権らが陰謀の触手を伸ばした。しかし、オットーは常に毅然とした態度でこれらの策略から距離を置き、自分の信念を曲げなかった。

第2次大戦中にはユダヤ人の欧州脱出を援助し、アメリカ亡命時代はオーストリアの権利の擁護に奔走、オーストリアへ帰国後は欧州議会議員となり、ソビエト崩壊後の中東欧諸国の独立と秩序回復に尽力した。

約650年間続いたハプスブルク家の歴史は、そのままヨーロッパの歴史だと言っても過言ではない。帝国の崩壊により国を追われても、オットーは母であるツィタ皇后のもと、帝国の伝統的教育を受け、7カ国語にも登る言語を習得した。どんな状況に置かれても帝国の皇位継承者であることを忘れず振る舞い、常にオーストリアのため、ヨーロッパの利益ために生きた。


ヨーロッパ精神の体現者だったオットー

オットーは、2011年7月4日、98歳で亡くなった。

ヨーロッパ全体が、戦争という苦しみの中、旧体制から新しい国家へと生まれ変わった100年を生きたオットー・フォン・ハプスブルクという人物は、ヨーロッパの人々にとってヨーロッパ精神そのものだった。ヨーロッパの人々は、そんなオットーの死をもって、オーストリア=ハンガリー帝国の消滅と認識したのではないだろうか。

オットーが幼少時代、ほんの少しの平穏な日々を過ごしたシェーンブルン宮殿は、今日も世界中からの観光客で賑わっている。


ライター岡倉
ハプスブルク帝国

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