資料請求
心に残る家族葬のロゴ
追加費用不要の葬儀

心に残る家族葬トップ > 葬儀のコラム > 大島渚の死に様 三島由紀夫の死に様

このエントリーをはてなブックマークに追加

大島渚の死に様 三島由紀夫の死に様

2013(平成25)年1月15日、『愛のコリーダ』(1976年)、『戦場のメリークリスマス』(1983年)などで知られる世界的な映画監督であり、テレビ朝日系の討論番組『朝まで生テレビ』において、議論が激しくなると「バカ野郎!」と相手を一喝するのが有名であった大島渚(1932〜2013)が肺炎のために80歳で亡くなった。

死の翌月、『戦場のメリークリスマス』や『御法度』(1999年)に出演したのみならず、自身も世界的な映画監督のひとりであるビートたけしが客員編集長を務める東京スポーツ社主催の『東京スポーツ映画大賞』において、大島に特別賞が授与された。その際たけしは、「日本の映画界の黒澤明(1910〜1998)のような王道じゃなくて、常に問題提起していた」と、大島を称えていた。


死後何年経っても語り継がれる人物 三島由紀夫

亡くなった当の本人が生前、必ずしも望んでいたとは限らないが、有名人でない限り、身内以外の多くの人々によって、10年、20年経って、盛大な宗教的儀式や追悼パーティーなどを催されることは、なかなか難しいのが現実だ。しかし逆に、「有名人」本人はもしかしたら「もうそっとしておいてほしい」と思っていたとしても、生前の偉業ならびに影響力の大きさゆえに、その人を「偲ぶ」ためのイベントが行われたり、雑誌やテレビ番組で特集を組まれたりする場合も少なくない。そのような人物のひとりに、三島由紀夫(1925〜1970)がいる。


大島渚が撮った映画「儀式」と三島由紀夫

1980(昭和55)年11月2日、『サンデー毎日』の、「三島由紀夫 自決10年大特集」において、48歳当時の大島が興味深い発言をしていた。

1970(昭和45)年11月25日、45歳の三島の自決当時、大島は映画『儀式』(1971年)のシナリオを書き上げて、埼玉県東松山市にロケハンに出かけていたところだった。途中立ち寄った駅前のそば屋で、後に中村敦夫が演じた主役のひとり・輝道役に「三島さん出てくれないかな」とスタッフと話し合っていた。ちょうどその時、テレビが三島の自決を報じたので仰天したという。

『儀式』は「ダメな男と何につけても優秀な男とのコンプレックスを軸」にし、「家」の中で絶対的権力を有する地元の名士が執り行う、伝統的かつ因習的な葬儀や婚礼などの「日本的」な「儀式」になぞらえる形で、第2次世界大戦敗戦以降、民主主義に大転換した日本人そのもののありようを描いた作品だ。しかも大島が三島に演じてもらいたかった輝道は最後、鹿児島県の離島において、全裸状態で自殺しているのを、主人公の満州男(ますお)とその元恋人でいとこ同士の律子に発見されるのだが、大島は、「上映されれば三島事件にヒントを得たな、と思われるんじゃないかと心配になった」という。実際、映画の中には、輝通の「死に様」のみならず、登場人物のひとり・忠が、父親への反発から、「新日本国家改造」を目指す右翼青年となり、あっけなく死んでしまうなど、「三島事件」を想起させる状況設定がなされていたからだ。


1970年前後の日本に流れていた空気

もちろん大島自身には、三島の「自決」を映画のネタやスパイスにするつもりは毛頭なかっただろう。しかし、三島に自決を決意させ、大島に『儀式』製作を企図させた1970年前後という「日本」や「時代の空気」とは、どのようなものだったのか。三島にとっては、「戦後民主主義」イデオロギーは「虚妄」だった。それゆえに、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省)に立て籠もり、自衛隊員に憲法改正のための「蹶起」を促さずにはいられないものだった。そして大島にとっては、まだ連合赤軍事件(1971〜1972年)が明るみになってはいなかったものの、戦後多く起こった社会主義、共産主義革命が日本であるということは絶対にない、といった絶望感を抱かせるに十分なものであった。思想や政治的立ち位置は全く異なるものとはいえ、2人の感受性は本質的に同じもの、すなわち日本に対する「絶望」を感じ取っていたのだ。


映画「儀式」に対する反応と三島由紀夫の自決

多くの批評家が『儀式』を、「大島渚の戦後についての早すぎる総括」と捉えたことを「気に入った言葉」としつつ、大島は映画封切当時、あまたの第2次世界大戦の犠牲者たち、そしてその上に建立されようとしている新たな希望としての「民主主義」、更には戦争を生き残ったものの、「大日本帝国」日本と「戦後民主主義国家」の日本に引き裂かれながら生きている戦後世代に対する「鎮魂歌」と捉え、映画のタイトルを『昭和挽歌』にしようかとも考えていたと語っていた。実際、『儀式』の中で頻繁に登場する法要や葬式など、死にまつわる「儀式」の様子は、本来「悲しいもの」「厳粛」「重厚」であるはずにもかかわらず、どこか表面的かつ空虚で、なおかつ下世話な部分も強調されていた。それゆえに、後年の伊丹十三の『お葬式』(1984年)とはまた異なる形で、「ナマ」の人間の姿や醜さ、滑稽さ、馴れ合いやごまかし、そしてそれら全てをひっくるめた、人間存在そのものの物悲しさが垣間見える。このように映画『儀式』を描き出した大島にとっての葬儀を含むセレモニーとしての「儀式」とは、「生身の情念を凝視(みつ)めたい…(略)…日常の中で(は)自分自身を表現できにくいものだ。ところが儀式は違う気持ちになる。そこで今回は儀式だけをつなげてみることにした」。そして、「日本人は大変に儀式が好きなんじゃないか…(略)…そういった時には、妙に自分が普段と全然、違った気持ちになってゆく。それは非日常への憧れと言ってもいいだろう」。そして「三島事件も、もちろん、儀式であっただろうし、戦争も儀式ではないかと考える」と結論づけている。


大島渚と三島由紀夫の育ってきた環境と死生観

そもそも三島と大島は、戦時中は「天皇の赤子(せきし)」かつ「軍国少年」として育った世代だ。そのような彼らの死生観について考える。

大島の場合は、映画評論家の佐藤忠男の指摘では、「死は、英雄的でロマンチックなものであったはずである…(略)…国家や権力や天皇は、彼らにとって、死を強要するうとましいものであるよりも、むしろ、いったん彼らを英雄にしてやると約束しておきながら、じつはあれはウソだったと言って、少年たちのヒロイズムに手痛い裏切りをおこなったものなのである…(略)…この世代で、戦後に左翼の政治活動に加担した者は、1950年代半ばの六全協(ろくぜんきょう。日本共産党第6回全国協議会。武装闘争主義からの方向転換を決議した会議のこと)やスターリン批判で、ふたたび、英雄的であろうとするロマンチックな気持ちに対する手痛い裏切りを経験させられる。彼らは、英雄的な死、という甘美なイメージを、心の中のどこかに持っている。が、しかし、そのイメージは手痛い裏切りによって傷つけられているから、決して、ストレートなかたちでは出てこない。むしろ、生きるための努力、ということと組み合わされたかたちで、死の賛美でもなく、また否定でもなく、いわば、死にたい気持ちと生きたい気持ちの確執のような、屈折したイメージとなって出てくる」という。

そして三島の場合は、大島によると、「45歳という年齢は、夭折という感じを残して死ねるギリギリの年なんでしょうが、実際はもう遅い…(略)…フランツ・ファノン(思想家・革命家。1925〜1961)もマルコムX(1925〜1965)もゲバラ(1928〜1967)もマーティン・ルーサー・キング(1929〜1968)とも30代ですよ。彼は作家だから整理する時間が必要だったんでしょうが」という。

更に三島由紀夫の死は大島にとっては、「作品を逆証明したもの…(略)…彼の作品は‘こしらえたもの’だと思う。美学も超一流だとは思わない。むしろ通俗的なものだと思う。彼自身もそのことを知っていて、死によって作品に血が流れていることを証明しようとしたんじゃないか。これによって三島の作品はこれからも力を持ち続けるでしょう。そして日本はもとより世界的にいっても、ある孤独な魂の救いになるだろう」と述べている。

2人の共通点を見出すとしたなら、同時代人として「英雄的な死」への憧憬を有していたことになる。しかし大島の場合は、それが生きたい気持ちと相まって屈折したものとなり、三島の場合は、自分のエゴではなく「大義」のために命を惜しみなく捧げる、かつてのキリスト教の殉教者や2・26事件の青年将校、特攻隊の隊員たちのように、「日本」または自分が生み出した作品そのもの、そして多くの作品を生み出した「作家性」のために、ヒロイックに殉じたということになるだろう。


大島渚の死に様

自ら自決した三島とは異なる、80歳まで生きた大島の「死に方」はどうだったのだろう。「30代から40代に移る年代は細胞が入れ替わる世代なのか、私も絶えず死に近いところにいた…(略)…斎藤龍鳳(りゅうほう。映画評論家。1928〜1971)、高橋和巳(小説家。1931〜1971)、三島由紀夫がつづけて死んだ時、ぼくは、『私の代わりに死んでくれたな』という気がした」、「それ以降私もやっと朗らかになり、『愛のコリーダ』、『愛の亡霊』(1978年)を撮ることができるようになった」と振り返りつつ、「私は人生に勝ちも負けもあるもんか、と思っているし、ヨイヨイになっても歯ぬけになってもよいと思っている」と語ってもいた。

映画製作やテレビなどで忙しく活躍していた大島だったが、1996(平成8)年2月、映画『御法度』の制作発表直後に、脳出血で倒れてしまう。懸命のリハビリによって、4ヶ月で復帰した。更に完成そのものが懸念されていたものの、映画を無事に完成させた。しかし2001(平成13)年、今度は十二指腸潰瘍穿孔から多臓器不全を起こす。翌年、奇跡的に回復して退院したものの、「要介護5」。食事から排泄まで、生活全てに介助が必要な状況になってしまった。その後大島は、妻で、『儀式』においては満州男や輝道の心を奪った叔母・節子役を演じていた、女優の小山明子の懸命な介護に支えらえ、12年生き続ける。それはまさに、20年以上前に自らが語っていた通りに、その生命を全うしたものだった。


最後に…

三島由紀夫も大島渚も、この世にはいない。叶うなら、2019(平成31)年の今、大島は三島と『朝まで生テレビ』のように激しい議論を戦わせて欲しい。戦後日本の総括、美に対する価値観、死生観…彼らに語ってもらいたいことは、1970年代前後のみならず、現代であっても、山ほどある。途中で大島がお約束の「バカ野郎!」を連発したり、三島がそれを軽くあしらったりなど、思い浮かべるだけで顔がほころんでしまう。しかし、それが叶わないのが現実だ。我々にできることは、何かの事件報道に接した折、「三島由紀夫なら、どう考えるだろう?」「大島渚だったら、何と言うだろう?」と想像を巡らすことだけだ。もちろん、「三島由紀夫」や「大島渚」ではなく、他の亡くなった著名人、または自分の身内や知人たちをそこに当てはめることも可能だ。そうした些細なことを残された人々になされることこそが、人の生きた証であるし、「儀式」ばかりではなく、亡くなった人を偲ぶ行為そのものなのだ。


参考文献など

■佐藤重臣「特集 1 大島渚のミステリーゾーン:大島へのインタビュー 非日常の儀式の中で日本人の心を考える」『映画評論』1971年4月号(35−38頁)映画日本社
■佐藤忠男「『儀式』における大島渚の日本人観」『シナリオ』1971年4月号(47−50頁)日本シナリオ協会
■佐藤忠男「大島渚監督の『儀式』 戦後の不毛の歴史への愛情をこめた全否定」『キネマ旬報』1971年6月号(94−95頁)キネマ旬報社
■大島渚「三島由紀夫自決10年:死によって三島文学を逆証明した」『サンデー毎日』1980年11月2日号(38頁)毎日新聞出版
■『儀式』(DVD)2011年8月27日 紀伊國屋書店
■「大島渚監督死去『愛のコリーダ』、『戦場のメリークリスマス』など名作遺す」『NEWS LOUNGE』2013年1月16日
■「故・大島渚監督 東スポ映画賞で特別賞に!たけし『本当に映画人』」 『NEWS LOUNGE』2013年1月23日 
■御園生涼子『映画の声 戦後日本映画と私たち』2016年 みすず書房
■『大島渚プロダクション
■「特別企画 夫に先立たれた妻の話:パパが一番 小山明子」『新潮45』2018年5月号 株式会社新潮社


ライター鳥飼かおる
御法度

御法度

このページのトップへ